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今から約1200年前の奈良時代に朝顔が薬草(下剤)として渡来した後、当初の用途だけでなく、観賞用として栽培されるようになったが、その後の1000年間は白花など、数えるほどの変異しか起こっていない。江戸時代後期、文化文政期(1805〜)になると他の園芸植物とともに朝顔も大坂・江戸でブームを迎え、木版の朝顔図譜がいくつも出版された。これらを見ると、葉や花の変化も比較的単純な、正木(まさき)と呼ばれている種子のできる系統がほとんどである。しかし、この時期、牡丹などの種子を結ばない(不稔)も記載されており、変異をヘテロ接合で持つきょうだい株(親木)で採種する方法や子葉の形で変異を見分けられることが栽培方法の項に述べられている。その後の嘉永安政期で鑑賞されるような、不稔の複雑な系統の元になった変異体の多くはこの時期に見ることができる。従って文化文政期は変化朝顔の基礎を築いた時期として重要である。嘉永安政期の朝顔図譜で用いられている葉や花の色・形を逐一説明する命名法はまだ確立しておらず、「乱獅子」のように単純に変異の名前で表すか、他の園芸植物と同様に「ふくら雀」等、風雅な品種名をつけている。ただし、この頃の番付表、例えば、文政8年(1825)の朝顔花合では「堺渦惣紅牡丹」「アワユキ小ハフキアゲ白キキョウ」のような品種の解説が添えられており、後の命名法のはしりが見られる。
嘉永・安政期になると再び大坂・江戸およびその周辺都市を中心とした第2次ブームとも言うべき隆盛を迎え、多数の朝顔図譜や、花合わせ(品評会)に出品された朝顔の優劣を記した番付表が出版されている。栽培家としては植木師の成田屋留次郎と大名の鍋島直孝(杏葉館)が特に有名である。この時期の図譜を見るといくつもの突然変異形質を組み合わせた複雑で不稔の株(出物)が鑑賞されていたことがわかる。特に牡丹咲や八重咲のように花弁数を増やし花を豪華にする変異をもつものが鑑賞されている。文化・文政期の図譜と違って、この時期の図譜には栽培法の記述は見られない。そのためどのように栽培していたか想像するしかないが、文化文政期に既に触れられていた、一見正常に見えるきょうだい株である親木から採種して、それから分離してくる変わりものを鑑賞するという方法が確立していたと思われる。経験則にしろ、このような不稔変異をヘテロ接合の状態で維持し、ホモ接合の株を選抜し鑑賞していたということは驚くべきことである。ただし、メンデルのように法則性に触れた文献はなく、そもそも生物に共通原理があると考えていなかったであろう江戸期の人々に遺伝法則云々というのは的外れな議論かもしれない。この時期、朝顔の命名法として葉の色・形、茎の形、花の色・形、花弁の重ねを順に記述していく命名法が確立している。これは、現在の遺伝学からみても非常に理にかなったもので、鑑賞用の出物がいくつもの変異が複合してできていることを知っていたかのようである。また、明治以降の朝顔五性説にも見られるように、いくつかの単純な因子が複合して複雑なものができるという遺伝の基本概念は理解していたようである。これには、中国から伝わった陰陽五行説の影響も大きく、西洋のメンデル以前の考え方より一歩進んでいたと言えるかもしれない。これらのことからも当時朝顔に関わっていた人々のレベルの高さを伺い知ることができる。
ただし、これらの複雑なアサガオも、植物の受粉の仕組みが広く一般に知られるようになる明治後期までは人工交配ではなく、栽培されている様々なアサガオ系統間で昆虫による自然交雑が起こったものを選抜することで作り上げたものであろう。また、複合している変異が多いため毎年作出する、または、再現が困難な株も多く、いわゆるチャンピオンレコード的なものを図譜に掲載しているものも多く見られる。
江戸期の文献(図譜)は、アサガオの変異体の記録としてだけでなく、日本の園芸文化の発展を知る上でも非常に貴重な資料である。他の古典園芸植物の文献では一冊限定の彩色本や写本の資料がほとんどなのに対し、アサガオではある程度の部数を出版するため、浮世絵の技法、つまり多色刷の版木を用いたものも多い。明治以降この版木を使って再出版された(農学者で津田塾大学創設者の父である津田仙によるものもある)。江戸期の文献については国会図書館のコレクションのデジタル化・インターネット公開が進められており、貴重な文献を見ることができるようになっている。
以下の文献でが付いたものは当研究室で保存している文献、が付いた物は主に国会図書館デジタルコレクションへのリンクである。利用にあたっては当HPの指示、または国会図書館デジタルコレクションの利用規程に従うこと。手持ちの文献も以前デジタル化を行ったもので再度高解像度のデジタル化を進めており、デジタルデータが無い物もある。
書名 | 年号 | 西暦 | 著者・編者 | 説明・注釈 |
牽牛花明鑒鈔(上中下3冊・写本) | 享保8年 | 1723 | 三村森軒 | |
三顔合(写本) | 元文5年 | 1740 | 夕顔庵 | |
肉筆朝顔帖(写本) | 文化初期 | 1806? | 不詳 | |
花壇朝顔通(乾坤2冊) | 文化12年 | 1815 | 壺天堂主人 | |
牽牛品類図考 | 文化12年 | 1815 | 峰岸正吉 | |
あさ顔百首狂歌集(写本) | 文化13年 | 1816 | 北風町丸 | |
あさかほ叢(上下2冊) | 文化14年 | 1817 | 四時庵形影 | |
牽牛品(2冊) | 文化14年 | 1817 | 峰岸龍父(正吉) | |
丁丑朝顔譜(初編) | 文化15年 | 1818 | 秋水茶寮 | |
牽牛花水鏡(前編) | 文政元年 | 1818 | 秋水茶寮 | |
蕣百花(写本) | 文政2年 | 1819 | 竜川亭一貫 | |
牽牛花百首 | 文政7年 | 1824 | 一柳春門 | |
朝顔百首狂歌集 | 文化13年 | 1830 | 唐樹園南陀羅 | |
朝顔集図(写本) | 天保3年 | 1832 | 日比野蘇川 | |
朝顔培養書(写本) | 天保13年 | 1842 | 成趣園桃蹊 | |
朝顔花併 | 嘉永6年 | 1853 | 龝叢園 | |
牽牛子攷(写本) | 嘉永6年 | 1853 | 森立之 | |
朝顔三十六花撰 | 嘉永7年 | 1854 | 万花園 | |
三都一朝(上中下3冊) | 嘉永7年 | 1854 | 幸良弼 | |
朝顔譜 | 安政2年 | 1855 | 龝叢園 | |
両地秋 | 安政2年 | 1855 | 幸良弼 | |
都鄙秋興(上中下3冊) | 安政4年 | 1857 | 幸良弼 | |
朝閑々美 | 文久元年 | 1861 | 東雪亭 |
016年は、大阪(大坂)で最初の朝顔図譜、花壇朝顔通が出版されたのが、文化12年(1815年)、江戸で最初の朝顔図譜、あさかほ叢が出版されたのが文化14年(1817年)です。ざっくり言えば、アサガオブームが始まって200周年の年になります。最初の学術研究が始まって100周年の年でもあり、アサガオ界では100年ごとに大きなイノベーションが起こっていくのでしょう。 さて今年はどんなことが起きるのでしょうか。そうです、あれしかないですね。2016/5/7
左図:花壇朝顔通に載っている「八ッ橋」(今で言う、雀斑または時雨絞の立田)