大輪朝顔(洲浜突然変異; retracted



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 明治後期以降栽培が盛んになり、現在よく栽培されている大輪朝顔は、州浜(retracted; re)と呼ばれる花弁(曜)数を増やす変異を持つため大輪の花を咲かせる。野生型のアサガオの花弁数が5弁(曜)なのに対して、洲浜突然変異ではこれが6〜9弁に増加している。また萼や包葉(bract)の数もしばしば増加する。葉は洲浜葉、または千鳥葉とよばれる各翼片がやや詰まった葉型をしている。これに花径を大きくするような蜻蛉(とんぼ)葉(dragonfly; dg)と肌脱ぎ(brim vein; bv)変異を併せ持つ蝉葉の系統が主に栽培されている。また芋葉(Globose; Gb)もある程度、花を大きくし、これと洲浜、蜻蛉葉変異を持つような恵比寿(えびす)葉系統も一部で育成・栽培されている。

↑左から洲浜葉(千鳥葉)、蝉葉、蜻蛉(トンボ)葉

 青葉だけだと栄養成長が盛んになって花径が大きくならないため、斑入(variegated)や黄葉(yellow)の系統が鑑賞される。青斑入蝉葉は略称で、アフセ、黄斑入蝉葉はキフセ、黄蝉葉はキセとしばしば表記される。
 大輪朝顔の作り方も後述の大阪の吉田氏が考案したと言われている行灯(あんどん)作りの他に、名古屋の盆養切り込み作り、京都の数咲き作り、尾崎氏の考案によるらせん作りがある。

起源: 大輪朝顔の起源は他の変化朝顔と同じく江戸期にさかのぼると考えられ、文化14年(1817)刊のあさがほ叢にも大輪咲のアサガオの記述がいくつかあり、例えば「葵葉菊咲」は曜の数が7曜と増加している。また「日傘(ヒカラカサ)」は大輪 大きさ渡り三寸六分(11cm)とあり、曜がかなり増加している。しかし確実に洲浜だと言えるものはない。嘉永期に出版された図譜には州浜の文字が見てとれる。たとえば、嘉永7年(1854)刊の朝顔三十六花撰には「掬水洲濱葉照千種花笠フクリン数切獅子牡丹度咲」とある。これは獅子(feathered)であり、獅子の弱い対立遺伝子の持つ獅子葉は洲浜葉によく似ているため本当の洲浜突然変異ではない。両地秋(嘉永8年刊)には鍋島杏葉館の作品である「黄洲濱葉紅カケ鳩筒ワレクルイシン一筋丁子咲芯」があり、これは狂い咲いてはいるが、比較的洲浜の特徴が出ている。この時期に存在した洲浜系統が九州の大名に渡りその後も栽培されていたと考えている。
 明治19年(1886)、旧筑前藩主黒田候(福岡)から吉田宗兵衛氏(秋草園;大阪)に「間黄洲浜葉柿覆輪四寸三分咲」が渡り、これから「常暗(とこやみ;黄千鳥葉黒鳩無地)」が出た。この系統の老獅子を元に花井善吉氏(大阪)が「紫宸殿(青斑入千鳥葉;明治38年(1905)」などの一連の品種を作出し、その後の大輪朝顔の基礎を築いたと言われている。塩飽嘉右衛門氏がその流れで大正8年(1919)に自然交雑品から見いだした「御所桜(青斑入蝉葉桜色無地)」などは現在栽培されている系統の元祖であろう。蝉葉系統は千鳥葉(洲浜葉)系統より、より大輪に咲くためその後広まっていったと考えられる。蝉葉系統ほどには大輪に咲かないが、現在でも一部で栽培されている恵比寿葉系統は昭和初期に尾崎哲之助氏によって作出されたものであり、多数の吹掛絞などの模様花を育成した。

以下に大輪朝顔の一部の系統を示した。太字で品種名を示した。写真をクリックすると写真が拡大します。

			

黄蝉葉紅覆輪 太陽の変 165

青斑入蝉葉吹掛絞 初霜 吹掛絞はこのように模様の安定した系統と次のように不安定な系統がある。 258

青斑入蝉葉クリーム地淡紅吹掛絞 

吹掛絞は地色がクリーム地のことが多い 140

黄蝉葉栗皮茶 団十郎
歌舞伎の市川団十郎にちなんだ名称 114

青斑入蝉葉藤紫地吹雪 

鳴海潟 吹雪にはこのような細かい模様のものもある 159

青斑入蝉葉柿茶地吹雪(縞) 時津風 

吹雪で模様の太いものを縞と呼ぶ 193

青斑入葵葉淡鼠色地葡萄色車絞 夢路

葵(あおい)葉は洲浜と丸葉の複合葉形である 151

青斑入恵比寿葉藤紫暈覆輪 雲上 

このような模様を雪輪とも言う  130

青斑入恵比寿葉青茎淡藤色逆覆輪 富士の恋

尾崎哲之助氏の系統 160

黄斑入蝉葉紅白咲分(時雨絞・雀斑)

大輪咲では珍しい咲き分け系統 122

青斑入蝉葉淡黄弱縮咲 

右近 黄色い朝顔の作出の試みは長い間行われている 146

青斑入蝉葉黒鼠 黒王

黒い朝顔も育種家の夢であり、これはかなり色が濃い系統 188